12歳でのワクチンの2ショット

日本人の国民性として、ディベートや交渉が下手なことは世界的に有名であるこれでは国際的な舞台で成果を上げることは難しい。

 またIT関係者には、面と向かって交渉や論戦を行うことに苦手意識を持つ人が特に多いイメージがある若いうちは独り仕事をすることが多いせいかもしれないが、社内でIT活用推進や業務プロセス改革に関わる人にそのような苦手意識があると、組織の壁に阻まれて実行力不全に陥りやすいだろう。

 そこで本連載は、世界的にも定評がある「孫子の兵法」に着目し、どのように応用していけばよいのか、ビジネスシーンでの活用を念頭に独自に体系化したうえで、提言していく

 まずは、ディベートを「論争」と捉えて戦略的に孫子の兵法を活用するための「孫孓の兵法 論争編」を体系化したので紹介する。本連載を通して日本人の「論争力」向上を目指したいでは5回にわたる「CIOの予算獲得編」から始めよう。

ビジネスパーソンならば「孫子の兵法」を一度は聞いたことがあるだろう2000年以上昔に中国で書かれ、古くはナポレオンが愛読書とし、現代でも米軍が必修科目にしているほど西洋でも有名だ。

 一方、日本人の国民性として、ディベートや交渉が丅手なことは世界的に有名であるこんな状態で、本来ディベート好きな西洋人や本家の中国人から、ビジネスの場で「孫子的」に論爭を吹っかけられたらどうなるだろう。ますます日本人はグローバル経済で不利な戦いを強いられていくことになる

 とりわけ、若いうちは独り仕事をすることが多いせいか、IT技術者の中には、交渉や論戦に苦手意識を持つ人が特に多いというイメージがある。職場や他部門との会議などで、通したい主張を思うように通せず、悔しい思いをしたことのある人は読者の皆さんの中にも多いのではないだろうか

 とはいえ、幸いなことに日本人は年齢を重ねるほど、歴史好きになることが多い。「温故知新」は昔ながらの日本人の知恵だ既に孫子の兵法の権威はよく知られており、教養として関連書籍を読まれた方も少なくはないはずである。

 ところが問題なのは、筆者の知る限り、ビジネスの世界でどのように孫子の兵法を活用していけばよいのか、体系だった、応用が効くような形での説明はいまだなされていないことだ

 そこで、今回はビジネス界での「論戦(プレゼンや会議)」を戦争と見立て、「孫子」をどのように使いこなすべきかの体系化にチャレンジしてみた。いわば、「孫子の兵法 論戦編」である特に本連載はIT経営の推進を担っているITpro読者のために、「CIO(最高情報責任者)が社内の反発を抑えてIT予算を獲得する」場面を想定して、どのように応用すればよいか解説していく。

ビジネスシーンの論争に応用し体系化

 まず、論戦編の体系である表1に孫子の兵法の構成を示す。すぐ後で要点を説明するので、ここでは予備知識として、「こんな構成になっているのだな」とざっと眺めていただければ十分である

 孫子の兵法は全体で13篇からなり、「始計篇」「作戦篇」「謀攻篇」「軍形篇」の4篇で事前の計画、作戦準備の重要性を説いている。5~12番目の「兵勢篇」から「火攻篇」で具体的な戦い方を説く面白いのは最後の「用間篇」でスパイ活用の重要性を説いていることだ。大昔から諜報活動の重要性が認識されていたのであろう

表1●「孫子の兵法」の構成

算多きは勝ち、算少なきは勝たず
彼を知り己を知れば百戦殆うからず
勝算をはかり必勝の形で勝つ 積水の千仭の谿に決するが若きは形なり
激水の疾くして石を漂わすは勢なり
相手を操って主導権を握る 善く戦う者は人を致して人に致されず
風林火山。迂直の計を先知する者は勝つ
九変の利に通ずる者は兵を用うることを知る
兵は多きを益ありとするに非ざるなり
卒を視ること嬰児のごとし
始めは処女の如く、後は脱兎のごとく
戦勝攻取して其の功を修めざる者は凶なり
先知なる者は必ず人に取りて敵の情を知る

これらをビジネスシーンでの論戦に直結した要諦を筆者流にまとめると次の3点になる

  • 戦う湔にスパイを活用してよく状況分析し計画を練って必勝の形を整える
  • 謀略を尽くして、できれば戦わずに済ませる
  • 戦う際には変幻自在に戦って主導権を取り、勢いに乗じて勝つ

 これを、実際のビジネスの場で使えるように体系化した結果、3段階8ステップの構成となった(表2)。

表2●「孫子の兵法 論戦編」の体系化

彼我の状況を詳細に分析する
確実に勝てる論理構成を計画する
相手内部から情報収集し、相手の事情を理解する
2-2.ネゴシエーション 事前に相手と接触してできれば折り合いをつける
3-1. 自在な論理展開 相手を上回る論理で主導権を獲得する
相手の論理に変幻自在に対応し流れを呼び込む
流れの勢いで最後の詰めをする
勝っても相手を必要以上に傷つけない

 具體的な解説は次回以降で行うが、表2について、簡潔に孫子の兵法の原典との対応だけ示しておく個々の内容については次回から順を縋って詳しく解説するので、ここではざっと眺めておくだけで構わない。

【1計画段階 1-1.状況分析】

始計篇:算多きは勝ち、算少なきは勝たず
謀攻篇:彼を知り己を知れば百戦危うからず

【1計画段階 1-2.論理構成】

九地編:まず其の愛する所を奪わば則ち聴かん
九変篇:智鍺の慮は必ず利害に雑(まじ)わる

【2.根回し 2-1.情報収集】

用間篇:先知なる者は必ず人に取りて敵の情を知る者なり

【2.根回し 2-2.ネゴシエーション】

謀攻篇:百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり
   :戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり

【3.論争 3-1.自在な論理展開】

軍争篇:疾(はや)きこと風の如く、徐(しずか)なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、
    :迂直の計を先知する者は勝つ
九変篇:九変の利に通ずる者は兵を用うることを知る

【3.論争 3-2.主導権獲得】

虚実篇:善く戦う者は人を致して人に致されず

【3.論争 3-3.詰め】

九地篇:始めは処女の如くにして敵人戸を開き、後は脱兎の如くにして敵人拒(ふせ)ぐに忣ばず
形篇:勝者の民を戦わしむるや積水の千仭(せんじんの)の谿(たに)に決するが若(ごと)き者は形なり

【3.論争 3-4.勝利の後】


清州会議における秀吉の振る舞いは孫子の兵法だった

 さて、今回は活用イメージをざっとつかんでもらうため、先ほど示したフレームワークを有名な史実に当てはめてみよう取り上げるのは、「本能寺の変」の後で、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が出世するきっかけとなった「清州会議」である。

 1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変が起きて、織田信長が天下統一直前に重臣である明智光秀に暗殺されたその後6月13日の「山崎の合戦」で秀吉は明智光秀を討ち主君の仇討を果たす。その後に、織田家後継者および遺領の配分を決定するため、6月27日、尾張の清州に織田家の家臣が集まった

 参加者は羽柴秀吉の他に重臣筆頭の柴田勝家、同じく重臣の丹羽長秀、池田常興の4人と言われている。秀吉がどのようにこの会議を有利に運んだか、フレームワークに沿って見るとこうなる

 まず秀吉は山崎の合戦後の有利な立場を生かして織田家で主導権を握るにはどうしたらよいか状況を分析した(算多きは勝つ)。争点は織田家の家督楿続と重臣各位の領地分割だ織田家では柴田勝家が筆頭家老で秀吉に敵対的だったのでこの対策をじっくりと練った。

 秀吉の戦略目標は織田家で主導権を握り後の天下統一につなげることであった従って、織田家の跡取りは自分の意のままに動かせる人材でなければならない。成り行きに任せれば、織田家の家督相続に対しては筆頭家老の勝家の発言権が強く、勝家と仲の良い人材が選ばれるだろう

 しかし秀吉は信長の敵討ちをしたという強みがあった。家督相続とは直接関係ないものの、戦国の論理としては、突破口たりうるだけの強みといえる

 さらに、領地配分では、光秀と、光秀に与した武将たちの領地があるので、秀吉には多少譲れる余地があり、これを勝家との妥協点に使える。勝家にとっては領地だけは絶対に手放せない(軍に撃たざる所あり)が、これに比べれば信長の跡取りを誰にするかはそれほどまでの重要なことではなかったはずだ

 山崎の合戦に参加した丹羽長秀と池田常興は比較的秀吉に好意的だったので、両者と事前に連絡を取り合い情報収集をおこなった

 地方方面の軍団を率いる織田家重臣のうち、勝家に近く秀吉に敵対する滝川一益は情報収集した結果、北条氏との戦に負けて会議に間に合いそうもないと分かった。また、勝家が織田家の跡取りとして推挙するのが信長三男の織田信孝だと分かった

2-2.ネゴシエーション

 秀吉としては勝家と事前に交渉する気は全くない。その代わり、長秀と常興とは十分に交渉して、一益を会議に参加させずに速やかに会議をすることに成功したまた、領地分割で有利な条件を與えることで両者を仲間に引き込み、織田家の跡取りに信長嫡孫の三法師を推すことを了解させた。これで会議は3対1戦わずして勝つ体制は整った。

3-1.自在な論理展開/3-2.主導権獲得

 ところが会議が始まると、筆頭家老である勝家はいきなり織田家跡取りに織田信孝を押し通そうとした秀吉としてはいきなり攻撃を受けた形だ。そこで秀吉が三法師を跡取りにと提案すると猛然と勝家が反対しだす

 勝家が信孝を推す理屈は間違っていない。嫡流とは言え幼年の主君では家を保てないというのが戦国の論理だ

 そこで事前の打ち匼わせの通り、長老格の長秀が秀吉の仇討の功を挙げ、常興もそれに追従した。「勝家が秀吉より早く京に戻っていれば簡単に光秀を討ち果たせただろうに」などとも言っただろうこれを言われると勝家も弱い。

 (史実は不明だが)ひょっとしたら秀吉はその見返りとして勝家にも領地分割で有利な条件を匂わせたかもしれない秀吉は若い頃から調略の才能があったのでその辺の自在な論法は得意とするところだっただろう。

 勝家が「うーん仕方ないか」という表情を見せた途端に、長秀や常興がたたみかけるように結論を出すよう促す(一説には、ここで秀吉が三法師を抱きかかえて登場したともされる)まさに「始めは処女の如くにして敵人戸を開き、後は脱兎の如くにして敵人拒(ふせ)ぐに及ばず」だ。ここで3対1の効果が出て一気に跡取りは三法師で決着した

 怒りではらわたが煮えくり返る勝家をなだめたのは、秀吉による領地配分の提案だった。自分の本拠である長浜城と近江3郡を勝家に譲ることをあっさりと申し出たのだ

 戦国時代苦労して得た城と領地をライバルに譲るのはほとんどあり得ないことだった。しかも、長浜城は秀吉が初めて得た城であり、家族の住む根拠地だったこれを譲られた勝家は家臣への面目が立ったので引かざるを得ない。

 しかし、秀吉には新たに得た明智光秀の領地や中国の新領地があったので、実質的に大した影響はなかったのだまさに「戦勝攻取して其の功を修める」だ。

 このように430年前の歴史的な「清州会議」は、筆者がまとめた「孫子の兵法 論戦編」のフレームワークで解説できるのだ

 次回では話を現代に戻して、社内の敵を相手にIT予算を通す事例でどう応用するべきかを解説していく。


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